道徳

 学校では道徳の時間の学習が定められています。学年によって内容が20〜22項目に分かれていて自分の生き方に関することや他人との関わりについて、社会について、崇高なる事象についてなどテーマがあります。発達段階において生活のきまりや社会のルールなど読み物資料をもとに授業の中で話し合いながら考えを深めるような構成になっています。敗戦後すぐに始まったわけではありません。占領軍は日本人の強靭な精神を研究し戦前の修身という学習を無くしました。わずかな兵站で米軍の脅威となったその戦いは教育にあったことを確信していたのです。日本を2度と戦争のできない国にすることは占領軍の課題でした。戦後、学校で心を教え育てる学習が必要だと考えられ教科とは異なる道徳という科目が設置されました。週に1回の学習を義務付けられています。このことは現在も変わりません。

 元々は子どもたちの道徳的心情を育てるためのお話が中心となってきました。そのため、昔話やグリム童話なども盛り込まれていたり、道徳的なお話が中心となりました。また、世の中で偉大な業績を達成した人々のストーリーも扱われています。近年でしたら、ノーベル賞を受賞した人々だったり、スポーツで活躍した人々の話などが取り上げられてきました。それらのお話は副読本と呼ばれる教材になっていました。副読本とは教科書ではありません。保護者から集金した教材費から一人一人に購入し、授業で学習に活用するものです。2019年より小学校では道徳が教科となり副読本ではなく検定された教科書が無償で配布されるようになりました。教科となったため学習の一つとして扱われることで評価がされる学習となりました。教科になったとはいえこれまでの学習から大きく変わっているかといえばそうでもありません。ただ、評価内容ができたのでそれを伝えることになったのです。簡単に言えば通知表に評価項目が加わったということです。ただし、記号などで段階評価をすることではなく、記述による所見として記入されるようになっています。もともと心の陶冶が目的であるので個人の心情を学習時間だけで押しはかることが難しいのは以前から言われ続けてきたことです。読んだ話の中から道徳的価値に当てはまる内容を読み取るのであれば国語のような学習になってしまいます。自分の行いや考えを内省することが目的であれば、どんな授業にしていくのかは指導者により千差万別で無限に方法があります。

 ここで、もう一つ考えておかなければならないことがあります。指導する先生も一人の人間です。個性があります。先生との関係性がどのような関係性であるのか。そして、学ぶ側の子どもたち相互の関係性もどのようになっているのか。複雑な関係性の中で一つの価値観をどれだけ高めていけるのか。大きな問題だと思っています。海外では道徳という教科は宗教という内容になっているところもあります。おそらく、戦前の日本も海外の教育に習って宗教の代わりにできた学習だと思われますが、ここは更なる研究も必要です。精神世界の範疇になるとその国の文化とも直結しているのでそこは尊重していくべきだと思っています。

 この教科は学校で教え育てる内容にふさわしいか、大いに再考しなくてはならないと考えています。教科の科目として学習することが適当とは言いきれないような気がするのです。最も文科省はどの教科領域でも道徳的価値観が内在しているとして、学校教育活動全般において要としての重要な学習だと説明しています。確かに、その通りですが、子どもの価値観は日々流動的です。1年間を通して計画的に偏りなく全項目を学習することがどれほどできるのかわかりません。その都度、生じた問題に直面した時に学ぶべきことではないかと考えます。必要感や考えるきっかけとなる心の揺さぶりがなければ学びは高まっていかないでしょう。子ども同士の関係は時に同調圧力を生み出し、思いもよらぬ価値観や独自の文化を作り出します。学校での生活の多くが画一一斉学習を基盤としていることの弊害があるのではないかと思います。今は、ダイバーシティとして多様性を重んじる世の中に移行しています。道徳の学習が一人一人が道徳的価値観を内観する時間として貴重な時間であることは間違いないと思います。

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