society5.0という言葉がでてきたのは2017年ごろだったと思います。行政機関ではもっと以前からあったのではないかと思いますが、この言葉が日本で作られていたとは知りませんでした。society4.0は1995年のWindows95というOSが一般向けに発売されて大きな話題となったことはよく知られています。それ以前よりPC産業は1980年代から大きな進化を遂げてきました。日本ではNECが発売した98ノートと呼ばれるラップトップパソコンが発売され広く普及しました。同時期に日本語入力文書作成機器として東芝のワープロが発売されたのはそれ以前のことでしたが、10年間で時代はPCの時代に移行します。同時にPCと電話回線を利用した通信も盛り上がりを見せていました。モデムとかパケット通信など現代から見るとわずかな情報量のやり取りでした。ホームページといったウェブサイトもあふれだしてきました。95年を過ぎたころからネット販売が盛んになり、今でも広く知られるヤフーやGoogleといった大手企業がサービスを開始してきました。
今の親世代はY世代がメインゾーンとなっています。Y世代はこのようなネット社会が広がったころに大人になりました。子どものころはまだ大人の世界だったネット世界でした。2008年ごろにはアップル社がスマートフォンを発売します。大きく普及したのはその後でしたが、きわめて小さなPC端末を生まれた時から目にしている子どもたちはデジタルネイティブと呼ばれました。Z世代はデジタル端末が当たり前にある世代なのです。これが日本だけでなく全世界同時に起こっていますので、世界中の子どもたちが同じような状況です。
日本は少子化となりZ世代の人口比率に占める割合は少数派となっています。ボリュームゾーンはX世代以前のsociety3.0~4.0といった高齢者が半数以上を占めます。現在の政策の仕組みを考えるとZ世代に有利な政策はとりにくくなります。老人大国の日本となっている間、他国はボリュームゾーンとなっているZ世代に市場は移行し活気あふれる経済状況となっているのです。Z世代が主な市場となった時に技術革新はさらなる進化を遂げます。電子マネーとペーパーレス、著作物のNFT化による最新技術を基盤とした社会はもうすでに到来しています。日本ではまだ5Gですらようやく一部で整備された状況の中で技術的な革新について希望はあまり持てそうにありません。
学校では個別最適化により個人の力を最大限発揮できる教育を模索していますが、現在の状況はあまりにも遅れたままの状態になっているのです。この状況を改善していくためにICTの利活用は必然と言えますが、学習の画一一斉学習と進学受験のあり方をなんとかしなければならないわけです。技術だけが加速度的に進化していく中で学校はsociety3.0のプラットフォームであることには限界がきています。
もともと現在の学校の画一一斉学習のあり方は大量生産大量消費時代の効率を優先してきた教育システムです。200年前の産業革命のころの帝国主義における軍隊育成プログラムがそのまま教育システムとなっています。日本でも明治の富国強兵、殖産興業といった言葉に代表される欧化政策の一部として学校制度を取り入れました。大正時代に民主主義が勃興していた時代と共に教育のあり方そのものを思考する教育者たちが学校のあり方を模索していく時代がありました。画一一斉学習ではなく子どもたちの発達や人間としてのあり方を考え抜いた試行錯誤の時代です。しかし、この流れは戦争という時代と共に消え去ってしまいました。
戦後、占領軍による民主化政策とともに現在の学校システムが再構築されたわけです。戦後のベビーブームと教員不足から画一一斉教育は愚か、学校が膨れ上がった数にのぼる子どもたちに対応できず、学習内容は限定され、教室も不足する中、歴史の教科書にも残るように野外での学習(青空教室)もあったそうです。戦災孤児もたくさんいる中でまともが学習とはならなかったと騒動できますが、それでも学校に行けば友だちがいて、話ができたり遊べたり、学習を教え合ったりすることができたことに喜びを感じることができたのではないでしょうか。さらに、給食の配給により食べることもできたはずです。こうした時代の後に高度経済成長を迎えた日本に画一一斉学習はガッチリと根差し、戦時中にあった同期の桜の如く、大きなマジョリティは同調意識を膨らませみんなで幸福な社会を構築することに意欲的な平和で勢いのある年代の1950年代を送るわけです。高度経済成長はジャパンアズNo.1と言われた1980年代まで続きます。その間にも学校教育の歪みや問題は少しずつ膨らんでいきました。世の中金と利権による裏の世界と表向きの世界とにはっきりと別れる中、大国を模範に大量生産大量消費を正義とする経済至上主義とも言える時代はバブル崩壊と共に終焉を迎えます。生活が豊かになった人々の暮らしの中で、画一一斉学習に合わない子ども達が増加してきました。当時では子どものわがままや親の躾の問題と言われ続けてきました。(今でもそういう人は少なからずいますが…)近年の問題はさらに深刻さを増し、いじめや自殺、暴力などの急増で明らかに学校が制度不全を起こしていることに気づいた人が増えてきました。
膨れ上がる問題と社会状況の変化に、これまでたくさんの制度が試みられていますが、根本的なプラットフォームである画一一斉学習、さらに同一年齢同一集団という構成は変わることがありませんでした。これに手をつけることは膨大な教育費の増額を意味するからです。気づけは国の予算で教育費に占める割合は先進国では最低、家庭の教育費の負担の割合は最高という統計が出る有様になりました。おそらくこの統計が出る以前に政府(少なくとも文科省)はわかっていたのではないでしょうか。ほんの一部の人たちが30年前から警鐘を鳴らし続けていたことを知っています。
財源を握っているのは財務省です。ここまで学校が苦境に立たされたのも実は大蔵省から財務省に変わってからのことです。財務省としては少子化になっているのだから教育予算(特に学校予算)は減少して然るべきという論理があるようです。しかしながら、経済が低迷し続けて明るい未来が見えない国の状況においてこのままでは日本は亡国の憂き目を見ることは明らかではないかと思います。