小中学校の夏休みもそろそろ終わりに近づきました。来週からは集団登校する子どもたちの声が朝響きそうです。今年の夏は涼しくなることがなく、まだまだ暑いです。来週の予報でも気温が下がることはなさそうなので学校に行くだけでも大変かもしれません。9月を前にこんな記事が目に入りました。
誰一人死なせない
警察庁・厚労省の自殺統計によると、2022年の小中高生の自殺者数は514人と過去最多を更新した。事故死として扱われたが、本当は自殺だったという子がいる可能性を鑑みれば、実際に自殺した子どもの数は、統計で示されているものをさらに上回るだろう。
とはいえ、重要なのは数の多さではない。絶対に子どもを誰一人死なせてはならないということだ。子どもの自殺を食い止めることは、全ての大人が果たすべき役目だ。子どもが誰一人自殺しない社会を作れなければ、子どもが大人に憧れることはないだろう。
自殺の理由は「過剰なストレス」
文科省をはじめ国や自治体は、子どもが自殺する背景の筆頭として精神疾患を挙げる。「うつなどにかかったから、死んでしまった」と言う。しかし私は、そんなことは絶対にないと考えている。数年前に脳科学について勉強する機会があり、子どもは普段と違う過剰なストレスが突然かかってキャパシティーを超えると、脳が危険状態になると学んだ。その突発的な危険状態からどうにかして逃げようとした末に選んだ行動が、結果として自殺という状況になるのだという。言い換えれば、精神疾患にかかっているかどうかにかかわらず、普段かからないような過剰なストレスが一気にかかれば、誰もが希死念慮を持ちうるということだ。
教育新聞
子どもを包む「風呂敷」を広げる
では、学校はどうあるべきか。まず当たり前のこととして、学校が同調圧力をかけたり、指導という名の下に精神的・物理的暴力を加えたりして、子どもを死へと駆り立てる場であってはならない。
その上で、学校に求めたいのは2つだ。
まずは、多くの大人が子どものサポーターになること。担任がどれだけスキルを向上させても、一人の教員がどれだけ生活指導に力を入れても、校長がどれだけ声を張り上げても、全ての子どもの自殺をなくすことはできない。担任で駄目なら全ての教員、それで駄目なら学校職員、それでも駄目なら保護者や地域住民と、子どもを包む風呂敷を皆で広げて、学校を多様な環境にしていく必要がある。その多様な環境にこそ、多様な子どもたちは自分の居場所を見つけられるのだ。
教育新聞
小学校の職場を離れてから半年が経とうとしていますが、学校現場では先生も子どもたちも大きなストレスを被ることになります。4月より多忙な1学期を全力で走り抜けてきた子どもたちも先生も再始動となりますが、子どもたちはともかく先生方はどうでしょうか。2学期ともなると長く行事の多い時節になります。想像しただけでも気は重くなります。
4月から日々世の中を俯瞰的にみるために書籍を読んだり図書館に通ったりネットで閲覧したりしてきましたが、世の中の変革は加速しています。これまでと同じ仕組みの中で苦しんでいる人たちも加速的に増加しているのではないでしょうか。
国内あちこちで学校のあり方について議論は活発にされているようでした。子どもたちの学びに関するものや教員の働き方に関するもの、学校の予算に関するものなど多岐に及びます。長期休業中のためかこれまでよく見られた教科領域における授業のあり方といった内容は影を潜めつつあります。子どもたちの未来についてあまりされなかったタブーを超えた議論が展開されているように感じました。
一方では例年恒例となった学力調査の結果が公表されています。私のいる鳥取県も例に漏れず公表が7月の末にありました。結果は例年通り全国並みといったところです。学校現場も県教育委員会もひと段落といったところでしょう。何せ、学校現場ではこの調査がとても重いのです。先生の授業の仕方や学校の取り組みなど細かく指導が入ります。かつてはこのために練習問題を取り組む時間まで設けて調査に臨んだという学校もたくさん見てきました。この結果は各学校にも市町村教育委員会にも届き、学校の評価につながっているわけです。細かく数字が並びますので地方自治体の議会でも格好の問題とされることも少なくありません。当然、結果が悪いとなると学校や職員一同是正が求められるものです。現場にとっては大きなプレッシャーとなっています。学校の目的が本来とは異なる方向へ流れていくことにつながると感じています。
さらに、私なりに気になっているところが何箇所かあります。それは家庭での学習時間とネット活用についてでした。昨年まで現場で先生たちが家庭学習に関しては宿題という形で学習内容を与えていることは今も変わらないのではないかと思います。ところが子どもたちは学年が上がるほどスポーツ活動や習い事などで忙しい毎日を送っています。理由は様々ですが、それゆえ毎日がとても忙しいのです。宿題は本当に必要なのだろうか。宿題をしていないからといって家庭学習ができていないと言われることはどうなのだろうかと思います。
すでに成人した娘が中学生の時に次のように言いました。
「大人は過労死しないように残業時間が月に限度が示されているが、子どもたちの勉強が仕事だとすると同じこと(受験勉強などで過剰)なのではないか。」
といっていました。受験に向かうストレスは大きなものです。そこで少しでも子どもたち同士で助け合って勉強できるように学習塾に行ったりしますし、家庭によってはストレスに打ち勝つために、心身を鍛錬するという取り組みとしてスポーツに取り組むこともあるようです。いずれにしても努力はやがて何かの役に立つとは思いますが、進学のために使う時間は学び本来のあり方からすれば大きな違和感を感じます。なんとなく、忍耐力育成とか平たく言えば我慢になれるという訓練のような気もします。
当時、娘が通っていたある中学校の参観日にある保護者が健全な心身の発達のため夜10時に就寝すると発言しました。それに答えて学年主任の先生がもう少し遅くまで勉強してほしいと発言していました。これはこの学校だけではなく全国で同じ思いの教員がたくさんいたと思います。
当時は学力テストによって学校も教員も評価されるということが当たり前の状況でした。当然、働き方改革という言葉さえ見当たらない頃です。その影ではたくさんの教員が心身を病み倒れていく人が次々と現れました。また、それより子どもたちの不登校や学級崩壊、いじめ、自殺も右肩上がりとなっていました。それが全国的に広がっていたと感じます。学力調査が始まった時には学校がまずい方向に舵を切ったと感じたものでした。それ以降15年以上が経過し当時、学力について指導していた昭和時代の権威は消えていきました。
私はこのままでは学校制度は壊れると考えています。現に今では少子化にも関わらず教員不足が取り沙汰される毎日です。この大量退職時代を迎えて学校制度は存亡の危機を乗り越えるためには150年前の明治から変わっていないプラットフォームを見直す時期に来ていることは明らかでしょう。