スポーツ

「健全な精神は健全な肉体に宿る」というフレーズをあまり見かけなくなりました。スポーツ文化を広め、大会開催にはよく出てきた言葉です。障がいをもつ人の人権を軽視しているということで使われなくなりました。しかし、パラリンピックが広まることでこの言葉が思い浮かぶようになりました。器具や装具を使ったり、支援を受けたりする中で限界に挑戦する姿はそれぞれが素晴らしく輝いているではないですか。まさしく、障害は個性として人間の可能性を切り開いていくことだと感じています。身体的にどんな特徴をもっていても健全な肉体です。重要なのは精神の方で不自由な環境でも身体を使って限界を超えようとする挑戦する勇気があるかどうか、前向きに生きようとできるかどうか、障がいがあろうがなかろうが同じことだなあと思ったりします。現在はそんなことが言えるほど豊かな世界になってきたといえます。人権の世紀といわれてずいぶん経ちますが、進化を感じることが多くなりました。

 かつて、スポーツは健康運動との関係で子どもの発育や人間の健康増進への道しるべとして各種大会が行われ、文化として興隆を見せています。スポーツは競技というイメージが払拭できませんが、たしかに大会があると順位がつけられ競い合いが生まれます。競技のために特別な鍛錬をして勝利や記録にこだわって日々練習を続ける人々をアスリートといったりしています。スピリチュアルな人々から見ると前世が修行僧だということもめずらしくないとのことです。

 スポーツの発展には種目によって使う道具や衣料、食品、場所などで収益を上げようとする事業化も進みました。そのため、プロスポーツと呼ばれる職業化も拡大していきます。もはや、選手はタレント活動ができる時代になったのです。道具や医療に関していえばファッションと結びつき日常の活動でも受け入れられて一般社会でも日常的になってきました。大きな経済効果を生んでいる文化としてこれからももっと日常的になってくるものと思われます。

かつては競技大会を学校で進んで取り組んでいた時代がありました。スポーツ大会で優秀な成績を残した子どもたちはスポーツ発展のために大きな原動力となり、地域発展を促したり、オリンピックなどでは国威発揚のため活躍を期待されたりもしました。そのため選手発掘としての学校教育の役割というものがあったと思われます。教育委員会はスポーツ団体と連携してそれを後押ししてきました。大会出場をめざした部活などの練習でひたむきに続ける努力や忍耐は学校を卒業した後の良い労働者としての訓練期間となったに違いありません。企業もそういう人材を望んで就職の窓口で優先しています。

 一方、スポーツの商業化も進みました。スポーツそのものを職業とすることが拡大し、プロスポーツは商業化を加速させることとなります。それに伴って大きく資金が動く世界ともなりました。もちろんメディアあっての拡大ですが、アマチュアのスポーツ愛好家の拡大にも大きな影響をもたらせています。その市場は計り知れませんが、医療や生体科学の発達に伴って拡大の一方です。スポーツの持つ意味はとても深く大きいことは間違いありませんが、光と闇の部分はどの世界にもあります。何のためにするのか、どうありたいのか意味や目的を探求しながら続けたいと思います。もちろん、楽しいからというのは大きな理由です。自分自身としても、ランニング、ウォーキング、ハイキング、登山、スキーなどはずっと続けてきています。どれも似たような運動ではありますが、個人でも、団体でも楽しめる事、適度に続けることで健康に良いこと、自然との一体感を感じられることなどが理由としてあげられます。とくに、AAとしては自然の中に浸ることは必須なのです。

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