現在の指導要領は今後の予測不能な社会に生き抜く力をつけることに方向を転換してきました。教育改革が叫ばれる中、公教育の課題はたくさんありますが、学習内容は減ることがありませんでした。おそらく、学力低下を恐れて声により内容を削減できなかったと思われます。これも受験産業が過剰に発達した高等教育のためであろうと予測できますが、文科省も十分に承知の上で改定されてきたものと思われます。次の改訂は7年後となりますので2030年それまで、この指導要領のままで進むのかと思うとゾッとしますが、これからの教育の中で必要なのは知識を吸収することや技能的なことでもなく、知識やできることをいかに活用して新しいものを生み出す力だと思われます。つまり情報処理ではなく、情報編集の力です。新しい発想を形とする力は積極的に新しいものやしくみを生み出し激変する世の中を主体的に生き抜くために働きかけるというものです。
日本の子どもたちの学力は総じて低くはありません。筆記テストでも十分に優秀なレベルであると言えます。また、これほどまでに治安の良い国は他にはないほどだと言われています。海外の様子はわかりかねますが、おそらく小学校から集団一斉学習を展開してきたことは少なからず影響しているのではないかと推察しています。ところが、この近年はそのことに馴染まず違和感を抱えている子どもたちも増えました。一昔前ならわがままとか我慢強さが足りないといった言われ方をしたもので、子どもばかりか親まで教育に関しての不十分さを指摘されたりすることもありました。2010年ごろからそんな子どもたちが増加の一途となり、今の学校の在り方の方がおかしいのではないかという議論も高まってきています。
その人らしさや個性といったものは全て尊重されるべきで、憲法でも生きる権利として重んじられています。いうまでもないことなのですが、学校教育では知・徳・体の3要素をバランス良く発達させることが人間の完成形として目標となっています。つまり、子どもは未熟で未発達なので学校で教師が教授して発達させるものといった前提があります。つまり、完成している大人が未完成の子どもを養育するという前提があります。これは学校制度が始まってからずっとある当たり前のことだと思われています。
これまで20年近く、子どもたちと学校で抱える問題の要因を探る上で、近代の歴史や社会現象、脳科学についてなど自分ながらに少しずつ研究してきました。子どもたちは一人一人が生まれながら多くの才能を持っています。その才能は環境によって開花したり、そうでなかったりすることがまちまちとなっているのです。必ずしも今の学校や社会に全ての人が適応しているわけではないこともわかってきました。親子といえどもその才能はお互いに知らないことにより、子どもが抑圧されていることも少なくないこともわかってきました。
昔から占いによる未来予測や精神世界への依存など、非科学的だと言われることにたくさんの人々が関心を寄せています。しかし、科学では説明できなかった見えない世界の現象も日進月歩で解明できるようになってきました。人間の特性についても脳科学という分野で驚くべき発展をして生きています。ただ、あまりにも急激に世の中に出してしまうことによって社会システムを崩壊させてしまう可能性もあるのです。
学習したことを生きるために活用すること。それが今の学校教育の課題です。子どもたち一人ひとりが自分らしく学ぶこと、それぞれがその学びを尊重されることが必要です。年齢によって定められた学習内容を画一一斉に学習すると言うシステムは流れ作業の大量生産時代に始まったことです。当然そこに適応しない子どももいるわけです。子どもが多かった時代はそれしかできなかったのかもしれませんが、日本は子どもが40年減り続けています。一人一人の力をどのように伸ばすかもっと自由さがあっても良いように思います。画一一斉学習がいまだに多すぎるのです。これを打開するためには内容を5割削減し、子どもたちが自由な進度で学習できるシステムが必要です。課題はこれからを生きるために自分の強みを複数生かしていくことができる力です。学校教育は、今、夜明け前にきています。